トリエステの坂道と海と改革

日本でトリエステは精神保健の町としてだけでなく、文学の町としても知られている。そのきっかけとなったのが須賀敦子さんの珠玉のエッセイ『トリエステの坂道』だった。写真の坂道の下には、かつての魚市場の時計塔とアドリア海がみえる。トリエステ出身のウンベルト・サバを愛した須賀さんは、この詩人の面影を探しにひとりトリエステを訪れた。

「サバが愛したトリエステ。重なりあい、うねってつづく旧市街の黒いスレート屋根の上に、淡い色の空がひろがり、その向うにアドリア海があった。そして、それらすべてを背に、大きな白い花束のようなカモメの群れが、まるく輪をえがきながら宙に舞っている」(須賀敦子『須賀敦子全集 第2巻』「トリエステの坂道」、河出文庫、2006年、p.265)

トリエステは、イタリア最北東部に位置する約23万人の国境の町である。14世紀前半から500年以上にわたりオーストリア・ハプスブルク家の一部であり、18世紀初めに「自由港」に指定されると、近代都市へと急速に発展を遂げた。『海底二万マイル』や『十五少年漂流記』で知られるフランスの小説家ジュール・ヴェルヌの冒険小説『アドリア海の復讐』には、活気があった頃のトリエステのにぎわいが活写されている。

「そこでは、広場でも、波止場でも、遊歩道でも、港のこちらのほうでも向こうでも、トリエステを貫流する大運河の周辺でも、イタリア出身の7万の人びとが、行ったり来たり、押し合いへし合い、仕事に狂奔してひしめいており、彼らの話すヴェネツィアことばのイタリア語が、この船員や商人や店員や役人の国際的大合唱のなかで、ドイツ語、フランス語、英語、スラヴ語などからなることばの渦にもまれている」(『アドリア海の復讐 上』金子博訳、集英社文庫、1993年、18ページ)

だがこの町の発展は、第1次世界大戦後に低迷の一途をたどる。戦後にイタリア王国に編入されると、港に不可欠な後背地を失い、イタリア半島の数ある良港との競争を余儀なくされた。その後はイタリア未回収地運動の先端として、ナショナリズムとファシズムの波にのみこまれた。二つの大戦のあいだにトリエステを通る国境線は6度も移動し、そのたびに数々の悲劇的な事件が町を襲った。1954年にトリエステがイタリア残留に決着したとき、町も港も疲弊しきっていた。

ミケーレ・ザネッティさんは、トリエステ県代表の座を降りた後、トリエステ港の責任者を務めた。しかしそのときは、精神医療改革のようにうまくは進まなかった。

オーストリア時代にはトリエステは中心都市でした。だけどイタリアの時代には周辺化されていきました。私が思うに、いちど落ちてしまったら、そこから這い上がるのは相当な力が必要になります。私はトリエステ港の責任者になったとき、世界各地に商業の拠点をつくっていきました。ミュンヘンなどのヨーロッパや、アジアにも開設しました。しかし1990年代にそれらはすべて閉鎖になったのです。そんなことはトリエステ港にとって自殺行為なのに、、、トリエステは「開く」ことをしなければ死んでしまう。だけれどもそれを可能にするような具体的なプロジェクトや長期的な視野に立ったアイデアが、今は残念ながら存在しないのです。公共交通についても、ロンキ空港に発着する飛行機は少ない。列車もどんどん少なくなる。これでは完全に孤立する道です、、、」(2015年4月22日インタビューより)

ザネッティさんは、精神病院と同じように、港も「開く」ことを試みた。港にかつての活気はなくなってしまったかもしれないが、現在、町の埠頭は市民の散歩道としてにぎわっている。おもえば映画「むかしMattoの町があった」の第2部は、トリエステの坂道のシーンから始まり、トリエステの海のシーンで終わる。トリエステの坂道と海には、須賀敦子さんが詩的に描いたように「イタリアにありながら異国を生きつづけるこの町のすがた」が、外の世界へ開こうとするなかで現れるときがある。精神医療改革では、バザーリアたちが病院の内側から扉をこじ開けようとし、ザネッティさんたちが病院の外側から扉を開こうとした。真に改革が実現するためには、この内外からの「開く」力が同時に働くことが不可欠となる。日本の場合はどうだろうか?

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(2006年12月12日トリエステの坂道、8月22日トリエステの海 撮影・鈴木鉄忠)